■たった4人の生徒からスター卜した 山聞の小さな高校のJAZZ CLUB
私がこの蓼科高等学校に着任した13年前は、
生徒数が200人に満たない小さな学校でした。(現在は320〜330人)。
あのころの学校の雰囲気は今とはまるで違っていて、地元の中学校を卒業すると上田市内や佐久地区の進学校に出て行ってしまう生徒が多く、
この学校に来る生徒たちは多くが「まあ、近いからここでいいか」といった気持ちを持っていて、
高校生活に対して大きな希望や強い目的意識を持っている生徒は少なかった。
それが学校の雰囲気にも反映していて、授業が終わると早々に学校から帰っていく生徒が多く、
放課後の学校はクラブ活動の声や音もあまり聞こえない、寂しい状況でした。
生徒指導面でもなかなか元気な生徒たちがいて、なかなか大変というのが印象でした。
当時はまだ全国的にも教育困難校という言葉があちらこちらで使われ、
この蓼科高等学校もその分類に入る感じでした。
ただ、東に浅間山、南に蓼科山を見ることができ、自然に恵まれた環境は落ち着いた高校生活を送るにはもってこいの環境ですか、
それを生かし切れていないのが現状でした。
そうした中で私はこの学校に赴任したわけで、
まずこの学校で私ができることは何なのかを真剣に考えました。
その時に最初にいついたのがトイレ掃除です。
荒れた学校のトイレは汚れている。これは私がずっと感じていたことだったので、
黙ってトイレ掃除とゴミ拾いから始めました。
1年間で約250---270回、学校のある日はほとんど毎日、生徒が登校する前に掃除をやりました。
9年目あたりになって職員の中から少しずつ掃除仲間が増えました。
つぎに、放課後の学校に活気を取り戻せないかが課題でした。
たまたま2年目に吹奏楽部の顧問になる機会があったので、
部員の誰もいないクラブの顧問になりました。
私自身、楽器は全く演奏できないので、音楽教師の協力を得て活動するきっかけを待ちました。
しかし、なかなか入部してくる生徒が出てこず活動を開始することができない毎日が続きました。
ところが4年目になったところで、たまたま昼休みに音楽室に遊びに来ていた女子生徒たちがいて、
その子たちに「やってみないか」と声をかけたところ、「やってみようかな」でスター卜したのが今のJAZZ CLUBの出発点だったのです。
■結成2ヵ月でステージに 生徒の目が輝きだした
音楽クラブに入部した4人のうち2人は楽器に触ったこともないという生徒たちでした。
最初は彼女たちにも耳慣れたJポップスを主体に教えていました。
でも4人くらいで管楽器合奏をやっても迫力はないし、なんかちぐはぐで音楽の面白みに欠けていたんですね。
「とりあえずやってみよう」で始めたバンドが、この音楽部「蓼科高校JAZZ CLUB」のそもそもの始まりであり、
現在を方向づけたといえます。
4人が練習を始めたのはゴールデンウィークが明けた頃からでした。
そのわずか2ヵ月後には無謀(?)にも、4人のメンバーに音楽指導の先生、指揮をする私を含めた6人で初めてのステージに立ったのです。
東信地区の高校の音楽クラブの発表会でした。
演奏した曲はディズニーかなにかの、今から考えると恥ずかしいくらい単純で簡単な曲でしたが、あのときは生徒も私も緊張の極にありましたね。
あのステージに立ってからです。生徒たちの目の色や輝きが急に変わってきたのです。
大勢の聴衆を前にしてスポットライ卜を浴びた興奮というんですかね、おそらく4人とも生まれて初めての体験。
あの感動がその後の活動の大きな弾みになりました。
しかし4人でのJポップなどを主体した演奏は、何より迫力に欠けるし、演奏もどこかちぐはぐなものになってきて、
それだったらいっそのことジャズカルテッ卜のように、ジャズもしくはポピュラーミュージックをジャズ風にアレンジして演奏してみたらどうだろうと考えたのです。
もちろん簡単なナンバーからでしたが、これが意外にも生徒たちの共感を呼んだのですね。
ジャズというのが新鮮な音楽に思えたのかもしれない。練習していくうちに生徒たちから「先生、ジャズってい
いよね。」それから1年目の夏休みは、本格的にジャズを練習していったのです。
■『不安』が「自信』に変わった ジャズの本場・アメリカでの公演
生徒たちがジャズを好きになり、音楽室からは放課後になるといつも軽快な音が響いてくるようになり、
蓼科高校はいつでも音が満ちている活気のある学校に変わってきました。
それから1年が過ぎ、翌年の4月には10人ほどの新入部員を迎えることになりました。
それでようやくビックバンドの編成ができるようになったのです。
でも半数近くが楽器は初めてという子たちでしたから、またーからの練習の積み重ねでした。
その頃の音楽クラブの名称は、まだ蓼科高校吹奏楽クラブといっていました。
その年(2年目)の秋のことでした。東京で高校生のジャズイベン卜(ステューデント・ジャズ、フエステイバル)があると聞き、
翌年1月の出場に向けて猛練習に取り組んだのです。
しかし結果は惨憺たるものでした。「バリバリのジャズを演奏するぞ!!」と意気込んで東京に乗り込んだものの、
審査員の評価はケチョンケチョンでした。
いわく「これはジャズとはほど遠い。吹奏楽だ」でも、私も彼女たちも決してへこたれなかった。
その評価は大変ショックではあったけれど、この言葉が私たちを次のステップへと踏み出させる大きな力、発奮材料になったのです。
ジャズとは何か、スウィングするとはどういうことか……。
みんなが真剣に考え、それからは今まで以上に練習を重ね
ました。その原動力になったのは、「これはジャズではない」という否定的な言葉によるものではなく、
メンバ-全員が「ジャズって楽しい! 」ということに気づいたからでした。
その後演奏会などを頻繁に行っていくうちに、2004年には映画「スウィングガールズ」のモデル校のーつとして
全国の注目を浴び、2006年にはNHKでJAZZ CLUBの活動を追ったドキュメンタリ「山あいの町がスウィングする〜
長野・蓼科高校ジャズクラブ青春記〜」が全国放送されるなど、県内だけでなく全国的に注目を集めるクラブになりました。
そうしたことも影響し、このクラフに入るために入学してくる生徒たちも次第に増えてくるようになったのです。
意欲も目標も持たない後ろ向きの高校生活を送っていた生徒たちの目の色、輝きが俄然変わってきました。
そして2008年3月、ワシン卜ンD.C.で毎年開催される全米最大の日本ストリー卜フェスティバルの一つ
「全米桜まつり」のオープニングコンサー卜をはじめとして、初の海外公演、また前年に来日して長野市で共演した
「ハワード大学ジャズアンサンブル」との合同演奏などが実現したのです。
ジャズの本場アメリ力で、私たちの演奏は受け入れてもらえるのか……そんな大きな不安も、演奏後、聴衆のスタンディングオベーション
で大きな喜びと自信に変わりました。
あのときの感動は私も含めて生徒たちの大きな力になったと思います。
信州の片田舎の小さな高校のジャズクラブが、海を渡ってアメリ力で公演できた。
そして現地の人々からたくさんの賞賛の拍手を送られた。
■ひとつのことに熱中する達成感心の底からスウィングする感動
たった4人からスター卜した蓼科高校JAZZ CLUB 。
この10年近い活動の中で生徒たちはもちろん、私自身も実に貴重な体験と素晴らしい感動を積み重ねてきました。
そしてこの功績は先輩から後輩へと脈々と受け継がれてきています。
今、蓼科高校は部活動も校外的な地域活動も盛んで、今までで、一番元気な高校になっているのではないでしょうか。
その起爆剤になったのが我が蓼科高校JAZZ CLUBであったと、私は胸を張って在校生をはじめ卒業生、父母、地域の皆さん
に伝えたいと思うのです。
ひとつのことに感動し、熱中し、夢を実現することの楽しさや喜びを知った子たちは、もう決して後ろ向きの自分には戻らないでしょう。
JAZZ CLUBでの活動は生徒たちにとって大きな青春の勲章といっていいものかもしれません。
心の底からスウインクする感動、そしてその感動を仲間たちと分かち合うこと、
この3年間の感動体験が生徒たちのこれから人生の礎になってくれれば、
私としては教師冥利に尽きるといえるでしよう。
ジャズの醍醐昧を知ったメンバーたちは、高校3年間でジャズを卒業することなく、
それぞれ進む道は遣っても今も多くがジャズへの熱い情熱を持ち続け活動を継続しています。
そしてより発展的な活動をするために10周年を一つの区切りとして2009年4月クラブバンドという形で、
更なるステップを踏み出します。
まだまだ進化していくバンドに精いっぱいかかわっていきたいと思っています。